Bok No Bibrok

日々の考察。

正直でいないこと

「正直でいないこと」は、たくさんの不利益を被る可能性があります。

正直でいない、つまり「嘘をつく」ことの戒めとして、言い古された話ではこんなものがありますね。

「嘘をつくと天国にいけない」

「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」

「嘘をつくと鼻が伸びる」

など。

(キノピオとピノキオ、どっちがどっちだか週に一度はわからなくなります。)

こういった話、たいていの人は「それこそが嘘だ!」とはねのけてしまうかと思います。

しかし、「嘘をつくこと」が現実的に悪影響を及ぼす可能性があるとしたらどうでしょうか。

具体的にいうと、日常でついた小さな嘘の積み重ねが、自分自身の本当の欲求にすら嘘をついてしまっているかもしれないのです。

「今の仕事で満足している」

「別にモテたいと思ってない」

「物欲ないからお金なんていらない」

「趣味でギターを弾くくらいがちょうどいい」

人は、やりたいこと、目指したいもの、手に入れたいものがあるのに、それらを見て見ぬふりをするため「自分に嘘をつく」ときがあるようで、私にも思い当たる節がありました。

「やった後悔よりもやらなかった後悔の方が大きい」とはよく言われますが、意外と見落とされているのは「自分の欲求を正確に自覚できている」という前提です。

気づかぬうちにそうならないよう、意識的に自分に嘘をついてないかを確認することは大事そうですね。

自戒の意味を込め、できるだけ人にも自分にも正直でありたいものです!

素晴らしい議論

誰かを不快にさせたいときのオススメの方法は「論破すること」です。

というのは冗談で、自分の主張を誰かに受け入れてもらいたいときに選択する手段として、「論破」は最悪です。

人が意見に反対するときは、だいたいその伝え方が気に食わないときである。

フリードリヒ・ニーチェ

このように、論破という選択肢自体が、相手を反論に駆り立てるためのものであることがわかります。

反論してきたから論破しようとした、というよりも、論破しようとしたから反論してきた、ということです。

これを理解している上で論破という選択を取っているのなら、おそらくその人は論破すること自体が目的になってしまっているのでしょう。

「手段の目的化」というやつですね。

では、自分の主張を相手に受け入れてもらいたいときにはどうすれば良いでしょうか?

目指すべきは、お互いの言い分を主張し合った先に現れる「第三の道」です。

言い換えると、「私の主張”A”」か「相手の主張”B”」のどちらかに決定することをゴールとするのではなく、そのどちらでもない「お互いの目的を達成できる”C”」を見つけるために尽力するということです。

全ての状況に対応できるとは言いませんが、多くの場合、お互いの求めているものを、二兎を得にいくことが可能だと思います。

そのためにはまず、「相手の”真の”目的を理解しようと努力すること」が鍵になってきます。

たいていの場合、その主張自身にではなく、「それに付随した何か」が目的になっていたりします。

その何かとは、自己承認欲求だったり、金銭的利益だったり、組織における自身の立場であったり、など様々です。

つまりは、その「真の目的」を察した上で、お互いの納得行く道を見つけようとすることで、例えば相手は「自分の提示した手段ではないが、その条件なら全然悪くないな」となり、結果お互いが満足できる結果に落ち着けることができます。

また、これは自分の主張にも同じようにあてはめることができ、「自分の真の目的」を改めて考えてみることで、自身の手段をフレキシブルに変えることも可能になります。

いがみ合ったり、自分だけの利益を考えて行動したりせず、相手のことを考えられるだけの余裕を持って、日々を過ごしていきたいものですね。

ラベリングとその副作用

学校のテストの結果がよくなかったとき、「ああ、自分は賢くないんだな…」と思ってしまうこともありましたよね。

でも、このテストというのは大概「受ける側」のためではなく、それを「管理する側」のためにあるものです。

成績でクラスを分け授業内容を調整しコストを減らす、優秀な人材をより優秀にして国力を増大させる、優秀な社員を採用しさらに利益をあげる、etc...

気づきにくいですが、自分の点数や向き不向きを知ることは自分のためではない要素を多分に含んでいます。

例えば「数学が90点、国語が40点」という数値化は、「自分は"理系"である」という一種のラベリングとも言えます。

自分の得意不得意を知るというのは、使い方によっては有用なラベリングではありますが、やっかいな副作用を抱えている危険性があります。

ある有名な話で以下のようなものがあります。

バケツの中に入れられたバッタは、もともとそのバケツ以上の高さまで飛ぶことができるのだが、バケツの蓋を閉め、一定期間経つと、バケツの高さよりも高く飛ぶことができなくなってしまう。

これは、「この高さ以上飛んでも天井にぶつかってしまうから全力で飛ぶことに意味を持てず、その結果全力で飛ばないことが習慣になってしまっている」と考えることができます。

いっときの数値化やラベリングが、まさにこの「バケツの蓋」と同じ現象を引き起こしている可能性は非常に高いと思います。

なので時折、自分の頭の上にバケツの蓋が被さっていないか、確認してみてもいいのかもしれませんね。

眠い

できることならずっと起きて色々なことに時間を使いたいものです。

8時間睡眠の人なら1日の1/3を寝ることに費やしているので、なんかもったいないですよね。

ただ寝ることはめっちゃ心地よいです。なぜなんですかね…。

僕は毎日、布団こそ唯一のユートピアだと思いながら恍惚な表情で眠りにつき、世界の終わりを告げるかのようなアラームを止めながら目を覚まします。

起きるまで起きたくなさがあります。

たぶん、みんなが寝ることを最優先にしたら平和になるんじゃないでしょうか。

今までの戦争が起きた根本原因ももしかしたら「寝不足」なのかもしれません。

なんか光の速さで地球のまわりを移動し続けるカプセルを作ってその中で寝れば、精神と時の部屋みたいに全く時間を消費せず寝れるんじゃないですか??

いや、これだと自分の時間が経ってないだけで起きたら退社時間になってますね…。

終寝

未来の匂い

情報にはちょっとした「匂い」があり、それによってなんとなくどんな未来が来るのかがわかるような気がします。

「匂い」と表現したのは、例えばソースを使った料理がキッチンで作られていたとき、それが何の料理はわからなくとも「お好み焼き」が来るのか、「ソースカツ丼」が来るのか、漂ってくる「匂い」からざっくりとした目星をつけることができるのと似ている、と感じたからです。

ソースの匂いがしたなら、おそらく「チーズたっぷりのマルゲリータピザ」は出てこないですよね。

こんな風に、例えば「スマートフォン」が社会に出てきたときにその「匂い」を嗅いでみることで、その先に出てくる料理(未来)をある程度推測することができます。

ex.「iPhoneやAndroidで使えるアプリは純正以外にも存在する」

「企業や個人によるスマホアプリを軸にしたサービスやゲームの台頭」

ex.「今までは主にパソコンの前でしかインターネットに接続できなかったが、誰でもいつでもインターネットに接続できるようになる」

「情報のリアルタイム性が高まることによる、TwitterやFacebook等のSNSの発達」

などなど。

今であれば、AI、ロボット、シェアリングエコノミー、文書改ざん問題、働き方改革、仮想通貨、ブロックチェーン、そういったキーワードの「匂い」を嗅いでみると、どんな料理が出てくるのかなんとなくわかりそうですね。

詳細はまた別のタイミングで書いてみようかと思います。

「はじまり」について

誰かが何かを始めた時、「急にどうしたの??」みたいな周りからの反応は避けては通れない道です。

自分の言動が「誰にどう思われるのか」は当然気にしてしまう部分ですよね。

ただ、例えばプロのギタリストも当然「はじまりの点」があったはずで、その人はもしかしたら学生時代に「ただのガリ勉君が急にギターなんか始めた」、というような印象をまわりに持たれていたかもしれません。

しかし、今ではその人が大舞台でギターを弾くことを当然のことだとみんな思っている。

このように、「他人による自分への評価」なんて簡単に変わるものなので、あまり気にする必要がないことがわかります。

したがって、「何か興味があること」「挑戦してみたいこと」があれば、まわりの目はどうせ変わることを念頭において、とりあえず「始める」「続ける」ことだけを目指してみるのが良いのかなと思います。

オカルトと科学と懐疑主義

「オカルト」という言葉を持ち出すと、「そんなものを信じてる奴は情弱!科学こそ至高!!」みたいな人が湧きがちな印象ですよね。

しかし、そもそも人類はたかだか100年前までは相対性理論の存在にすら気づけていなかった、ということを忘れている人が多いように感じます。

まさか時間が可変的なものであり、むしろ光が絶対的な存在だとは、アインシュタイン以外の科学者は考えもせず、大げさではなくほぼ全人類の常識が覆りました

また別の例で言えば、人類は1674年まで微生物の存在を知りませんでした

アントニ・ファン・レーウェンフックという人物が、手製の顕微鏡を覗き、水滴の中でたくさんの生物が動きまわる「もうひとつの世界」を発見した時は、肝を潰したといいます。

このように、私たちが知らない世界というのは未だ多く存在している可能性が高く、確信を持って断定できることは非常に少ないのです。

つまり、幽霊や宇宙人、超能力なども、まだ科学的に解明されていないだけで、例えば22世紀にはそれらを観測することが当たり前の世界になっている可能性はゼロではないのです(もちろん存在しない可能性も充分あります)。

論理的盤石さを持っているように思える「科学史」ですら、幾度となく今までの常識を覆され続けてきているのですから、簡単に結論を出し、それに全体重をかけてしまうことは非常に危険な行為と言えるでしょう。

にも関わらず、こと日常生活においては、テレビで「容疑者」として報道されてしまっただけで、大半の人々はその人物をあたかも「犯人」のように扱ってしまいがちです。

「犯罪者というレッテル」は、無実だと判明しても、その人に一生ついてまわる消えない傷となるため、そう簡単に断定してはいけないはずですよね。

こういった偏見や盲信を回避するために必要になってくるのが「懐疑主義」という考え方です。

これは何事においても「疑ってかかる」ということであり、複雑な世界を生きるためのある種の「コツ」と言えるでしょう。

これなら、例えば都市伝説などを聞いても、「そうだったのか!」と鵜呑みにするでもなく、「陰謀論者乙www」と一蹴するでもなく、あくまで中立の立場でいることができます。

したがって「懐疑主義」は、容疑者の例のように、自分の身を守るだけではなく、知らない誰かを守ることにもなりうる、重要なスタンスなのです。

多くの人がこの考え方を習慣づけてくれたら、今よりも少しは善い世界になるのかなと思ったりします。

詩と小説について

文量や形式、ジャンル、様々な違いはありますが、今回注目したい相違点は「想像の”舞台”をどこに置くか」という部分です。

小説は、基本的な物語が小説自身の中にあり、「作品の中で」想像を膨らませていきます。

対して詩は、短文ということもあり基本的に抽象度の高い表現をする場合が多く、その抽象化されたテーマは「読者の中で」想像を膨らませていきます。

「詩のテーマ」と「読者の経験」をマッチングさせる感じですね。(出会い系文学ってとこでしょうか。怒られそうですね。)

したがって詩は、読者がマッチングできるような経験をしていない場合、ちんぷんかんぷんなものになってしまう可能性があるため、共感しにくくなってしまいます。

現代において、詩が小説に比べあまり広まっていないように感じられるのは、グローバル化に伴なう多様化したライフスタイルの定着により、上で述べた「マッチング(共感)」のハードルが高くなってしまったからなのかもしれません。

例えば昔であれば、相手に想いを伝えるときはラブレターを採用することがほとんどだったかもしれませんが、今では電話やメール、 LINEやTwitterなどのSNS、そもそもちゃんとした告白もなくヌルっとお付き合いが始まる等、行動や状況のパターン数が膨大になっているように感じます。(ヌルっと始まるお付き合いってなんなんですかね。いいですね!)

そのため、詩の抽象化した部分が何を指しているのか自分の中に落とし込めず、共感しづらくなりがちなのかもしれませんね。

とはいえうまく落とし込むことさえできれば、その高い抽象度により各人の中でピッタリとハマるよう物語は姿を変え、ある意味「オーダーメイドの作品」になることができます。

宮沢賢治をはじめとして、少し前の時代にはたくさんの良い作品があったわけなので、この時代に適したちょっとした進化があれば、また色々な詩の作品を目にすることも増えるのかもしれませんね。

5次元超の世界

基本的にこの世界は「縦・横・高さ」の3次元に、「時間」を加えた4次元だと言われています。

ここに思考実験として「5次元目以降」を付け加えていくとどうなるでしょうか。

とりあえず試しに「視点」を5次元目として追加してみますか。

これは「誰がそれを認識するか」という意味とします。

これによって4次元と何が変わるのでしょうか?

例えば、「誰かが事故で亡くなった」という出来事が起きたとします。

こんなニュースは日常茶飯事的に流れていますが、大切なのは「どこの誰が亡くなったのか」という情報ですよね。

犠牲になった方が自分の知らない人だった場合、失礼ながらあまり気に留めることはないかと思います。

しかし万が一、その事故で亡くなったのが自分の大切な人だった場合、目の前が真っ暗になり、明日からの未来を考えることもできなくなる、そんな感覚も想像に難くないですね。

このように、「故人の身内から見た世界」と「完全に外部の人間から見た世界」で、全く違ったものになるのがわかるかと思います。

ちなみに、これが公園の池にいるアメーバから見た場合は、まったくもってどうでも良い出来事ですよね。

それよりも友アメーバが魚に食べられることの方が一大事だと思います。

つまるところ、同じ「縦・横・高さ・時間」だったとしても「視点」が違うことにより、それぞれ「違う世界」として捉えることができるということです。

さて、「縦・横・高さ・時間・視点」ときたところで、他にはどんな情報が追加できそうでしょうか?

例えば、「経験(その地点までの状態の遷移の蓄積)」というのもありえるかもしれません。

というのは、さっきの事故の話で自分が現場にいた場合、その事故発生時点までに「AEDの使い方を過去に習ったことがあるか否か」で、その先の未来が変動する可能性があるからです。

もし「経験」の次元に「AEDの習熟」を持っていた場合、目の前の大切な人が死なない世界にすることができるかもしれません。

また人ではなく無機物の観点から見ても、「張りたてのギターの弦」と「張って弾いてから一ヶ月が経過したギターの弦」を、同じ時間軸で比較した場合には同じものとは言えないですよね。

こんな感じで色々考えてみると世界をまた違ったように見ることができて面白いかと思います。

別に正解を探す必要はなく、試しに考えてみることで、待ち合わせに遅れてくる誰かを待つ間の暇つぶしにはなるかもしれないので、よかったら皆さんも遊んでみてくださいね。

少し先のお話

現在のインターネットは、主に広告ビジネスによる収益で成り立っていると言っても過言ではないでしょう。

しかし、諸行無常という言葉が示すように、いつまでも同じ状態が続くことはありません。

おそらく、そう遠くないうちにまた新しい流れが生まれると思っています。

では、次はどのような収益モデルによりインターネットは回っていくのでしょうか。

ひとつの仮説として提案したいのは、「相互奉仕社会」の実現です。

端的に言うと、「今まで無料だったインターネット上をはじめとした個人の様々な行動が価値のあるものになる」というものです。

現在のインターネット上ではウィキペディアのように、例えば物理学の専門知識など、身につけるまでに多くの時間を要する「価値ある情報・能力」が完全に無料として提供されています。

これが、ブロックチェーンによる、より多彩なトークンの登場により変わっていくと考えられます。

具体的には、多様化した現代において、人それぞれが持っている「ちょっとしたスキルや情報」が、より明確な価値として扱うことが可能になります。

したがって、今まではそのちょっとした情報やスキル、親切などをお互いに提供しあう「ある種の物々交換」だったものが、「トークンとの交換」に遷移していくことによって、助け合うということがより明確なお互いの価値として扱える世界になるのです。

この世界が実現したら定職に就くということも減っていくでしょう。

例えば週3日は今までのような仕事をこなすが、残りは自由にしつつネット上にある様々な小さな仕事をこなし補填する、そんな生活です。

今の日本のような働きづめの社会が古臭くなり、もっとフレキシブルな生き方ができる、そんな未来になって欲しいものですね。