Bok No Bibrok

日々の考察。

非対称性のありがたみ

日常生活において、色々な人たちのおかげでたくさんのことがつつがなく回っているんだなと実感します。

畑を耕して美味しい農作物を作ってくれる人。

それを運んで市場まで届けてくれる人。

その農作物を仕入れてお客さんに売ってくれる人。

それを調理して美味しい料理を作ってくれる人。

他にもたくさんの人の、たくさんの種類の仕事や行動によって世界は成り立っています。

そんなちょうどいいバランスの影には、人間の「非対称性」というものが隠れているようです。

非対称性とは

非対称性というのは、シンプルに言うと「同じでない」ということです。

自分が興味を持つことと、他の誰かが興味をもつことは、バラバラなことが多いですよね。

一つ共通なものがあったとしても、全部が一致していることなどありえないと言っていいでしょう。

仕事ももちろんそうで、楽器演奏が共通の趣味の人同士でも、職種までは同じではないですよね。

もし、人間にこういった非対称性が無い世界だったとしたらどうなるでしょうか。

非対称性のない世界

例えば、みんな「ギターを作ることが好き」だとして、ずっとそれだけの行動をとったとしたら…。

世界中の全員が毎日ギターを作ることに励み、

アンプを作れる人はおらず、

ベースを作れる人はおらず、

せっかく作ったギターを上手に弾ける人もおらず、

結果的に音楽を生む人も現れず、

それ以上に、

飲食物を供給する人、家を作れる人、道路を作る人、自動車を作る人など、

そもそも生命維持に必要な行動もままならず、絶滅の危機に瀕してしまいます。

(無限にギターが生まれ続ける世界も見てはみたいですが)

おわりに

絶妙なバランスで様々なことに好奇心を向けるという、人間の「非対称性」のおかげで、我々は日常生活をおくれることがわかりました。

ちなみに、実はこの非対称性、人間だけではなく他の生物たちにもあるもので、

よくある例は、「ミツバチ」と「花」です。

ミツバチは花粉を運ぶかわりに蜜をいただく、花は蜜を渡すかわりに花粉を運んでもらう、といった具合です。

もはや引くほどに均衡が取れていますね。

見方を変えれば、この世界は自分が好きなことだけしていても結果的にうまく回るようになっていると捉えることもできるので、嫌なことではなく、できるだけ自分が好きなことをしていけたら楽しいですね。

P.S.
パクチーが食べられるようになってきました。

身体を動かす

最近の睡眠の質が悪すぎて、これはヤバイと思い、また走ったり歩いたりするようにしました。

眠れないというよりは眠り姫の方です。

運動は、年はじめくらいにはプールで1km泳いだり、4~5km走ったりというのは週に一度ずつ、5月くらいまではやっていたのですが、なんかのはずみで非習慣化してしまいました。悲しいです。

走ることは8月くらいから趣向を変えて無酸素運動(坂道ダッシュ)をやってみていたのですが、たまに人が通るような一般道をアラサー男性(都内在住)が全力ダッシュすることに気が引けてやめてしまいました…。

でも中高生以降は全力ダッシュしてなかったのでいい機会になりました(?)。

全力ダッシュのような無酸素運動は、短時間で体力を鍛えられるという点では良かった気がします。

そんなこんなで、ごくシンプルに2km程度や15分程度の、少量の運動から再開してみることにしました。

「運動するぞ」っていうハードルに関してはこう色々やったのもあり、かなり低くなっているので、あとは「目標は低く、とりあえず身体を動かすだけ」って感じで習慣になるようにしたいです。

P.S.
自炊用になんとなくツナ缶を買いましたがレシピはまだ調べてません。

先延ばしにしない

日々、いろいろな面倒ごとが起こりますが、そういったことは大抵先延ばしにすることにより被害が拡大します。

税金の支払いや借金の返済、免許の更新、仕事関連の返信、夏休みの宿題etc...

先延ばしにしても、それぞれのタスクが元々のままの状態で居続けてくれればそこまで問題はないかもしれませんが、悲しいことにそんな場合はほとんどないようです…。

例えば、夏休みの宿題は「締め切りまでの時間が減少」します。

仕事関連の返信は、「相手からの印象・信頼度が低下」します。

利子のある借金は、「返済額が増加」します。

このように、早く取り組むことにメリットがあるというよりも、早く取り組まないことにデメリットがあることがわかります。

だから面倒ごとは早くやるにこしたことはないんですね。

と言いつつ自分も先延ばしにしがちなので、まずは「それを先延ばしにすることで変動するデメリット」を考えてみるところから頑張ろうかな、と思います。

P.S.
深夜ほどジャンクフードを食べたくなる現象の名前を教えてください。

作品とそのインスピレーション

作品を作るにあたり、多くの場合、作者のイメージやそれを通しての受け取り手へのメッセージに対し、様々な試行錯誤が行われます。

「こうしたら思ったように伝わらないかもしれない」「これじゃ不自然さが出るかもしれない」、そういった細かな表現の吟味をたくさん積み重ね、一つの作品が出来上がっています。

これらの努力の結果、作品を受け取った人それぞれに、同じような感覚を味わわせることができます。

ただ、最近そううまくいかないことも多いのだろう、と考えるようになりました。

というのも、様々な表現方法により同じような「事態」を作り上げたとしても、その「解釈」は受け取り手の価値観によって完全に左右されてしまうからです。

例えば、「様々な困難を努力で乗り越えた」というストーリー(事態)を作り上げても、

「やっぱり自分を信じて努力すれば報われるんだ、頑張ろう!」というように捉える人もいれば、

「こんなの所詮フィクションの中での話で、自分の努力が報われるとは限らない。だからできるだけ楽をしよう」というように捉える人もいる、ということです。

事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。

フリードリヒ・ニーチェ

思想家のニーチェがこのように言っていて、まさに、って感じですね。

しかし、このような「解釈」の差に対しても、「事態」を生み出すプロセスの工夫でどうにかなるのものなのかは気になるところですね。

というのは、ヤンキーが実際に更生した時のようなプロセスを正確に再現できれば、大半の人には価値観がポジティブになるような「解釈」をさせることができそうだ、ヤンキーが変わるくらいなんだから、というイメージです。

自分が何かを通じて感じ取ったことが、他人にも共通したものではないかもしれないというのは、忘れがちですが大切なことですね。

だからこそ好きなものが同じだったときはとても嬉しいのですが!

P.S.
かつお節が好きです。

伝えること

コミュニケーションを通じて人に何かを伝えるとき、そのニュアンスがとても重要になってきます。

これはある意味、音楽などのアートに通じるところがあり、「こちらの真意が曲解されずに伝えられるか」という部分が似通っています(もちろん伝えたいメッセージがないアートもありますが)。

音楽であればメロディや歌詞、アレンジ、音色等、それぞれが聞き手に与えるイメージを余すところなく想像しなくてはいけません。

そして、この想像する作業は将棋やオセロなどの「ボードゲーム」に似ています。

こちらがこう動かしたら相手はどう動かしてくるか、という想定を何通りも考える必要があるからです。

「きっとこういう言い方をしたら誤解されて不機嫌になるかもしれない」

「落ち込んでいるから今は逆に何も声を掛けない方がいいのかもしれない」

「今これを言えば笑ってくれるかもしれない」

「自分の行動」とそれに対する「相手のリアクション」をたくさん想像し、「これなら曲解されることなく、想定通りの結果になるはず!」という行動を選択するのが大切なんですね。

もちろん、その行動が相手によく思われない可能性もありますが、その時は次に活かしていくしかないでしょう!

つまるところ、コミュニケーションというのは一種のゲームでもあり、アートでもあると言えます。

それがうまくできた結果生み出された作品は、とても素晴らしいものですしね。

また、ただこちらが一方的にうまくやればそれで終わり、というものでもないため、「チームワーク」が求められるスポーツのようなものと捉えることもできます。

そう考えると、こちらが少しイラッとしたからといって強い言葉で返してしまうのは、チームの成果として、全く良い状態にならないことが容易に想像できるため、やはり相手に嫌な思いをさせることが適した手段にならないことがわかります。

味方がラフプレーをしたからといって自分も雑なプレーをすればチームとしては負けてしまいますよね。

いつどんな内容でも、話し相手は「敵チーム」ではなく「味方チーム」だということは忘れないでいたいですね。

色々なものに例えることができるコミュニケーションは奥が深いものです。

相手によって正解も変わってしまうような難しい問題ではありますが、できるだけ好成績を残せるように引き続き頑張っていきたいと思います。

P.S.

昨日の夜ご飯はしょうゆラーメンでした。

戦わない

「戦わねばならん時がある」みたいなことを、マンガとかで見たり聞いたりすることがあります。

しかし、現実社会において戦う必要があることは実は稀で、大半は戦う必要のない場面、しかも無意識のうちに戦ってしまっていることが多々あります。

「あいつばっかり良い思いしやがって。何か欠点を見つけてやる!」

「おれの方が優秀だってことをみんなにわからせてやる!」

「あの政治家の発言を擁護するやつは許さない!」

特に「張り合い」という形でよく見られるこういった戦いは、誰かのためにもなってなければ、大して自分のためにもなっていないという、なかなか悲しいものです。

加えて、誰かのためを思うのなら、実はその戦場じゃないところで行動した方がもっと直接的にその人達のためになるのに、と思うこともしばしばです。

そして、戦う必要があるときというのは、思い返せば大概相手は自分自身で、しかも「勉強」とか「ダイエット」とか、ある意味自分のためのことだったりしますよね。

その戦いは、そもそもやる必要があるのか?

その戦いは、誰のためにやるのか?

その戦いは、何のためにやるのか?

戦いをおっぱじめる直前に、考えてみる癖をつけるとまた少し幸せになれそうですね。

P.S. 「直前に」と「筑前煮」って従兄弟みたいですね。

01 vs グレー

特に日本人にありがちな話みたいですが、「極端な選択を求めがち」ということがあります。

わかりやすい例で言うと、「原発賛成」か「脱原発」みたいな感じですね。

「たくさん原発を使おう!」という考えと「原発は1つも使わないで!」という考えの、二極どちらかしか答えがないように振る舞ってしまいがちという。

しかし、残念ながら世界はそんなにシンプルではないため、もう少しグレーゾーンを許容していくことが、大事になってくるような気がします。

「原発は3基だけ動かしましょう」

「普段の連絡はLINEだけど、誕生日には手紙を贈る」

「歩きか車、電車ではなく自転車」

「ギターの歪みはクランチで(?)」

などなど。

コーヒーで言えば、「無糖」や「その逆」ではなく、「微糖」を候補に選べるような違いのわかる漢を目指したいものですね。

ちなみに「その逆」ってどんなものなんでしょうか?

砂糖の塊に無糖のコーヒーを一滴垂らしたやつですか?

それってコーヒーなんですか?

ちなみに私は普段ブラックでしかコーヒーは飲みません。

最期への心構え

「今日が人生最後の日だと思って生きよう」

Appleの創業者であるスティーブ・ジョブズもスピーチで言った、良く耳にする言葉です。

でも、こう言われてどれだけの人が今日を死にものぐるいで生きることができるでしょうか?

少なくとも私は「毎日そんなに頑張ったら疲れちゃうよ」と思います。

そう思って今日を生きています!

そもそも死んでしまったら、「もっと死にものぐるいで生きればよかった…悔しいです!」と、後悔してる暇(?)なんてないような気がしますし…。

それよりも「好きな人や恩人が明日死ぬかもしれない」ということを想定した方が良い生き方ができるのではないか、と思います。

ちゃんと伝えたいことは伝えられているか、普段の態度はどうだろうか、もっと一緒に色々なとこへ出かければよかった、、、

こっちの方が毎日死にものぐるいにならなくても、日々のちょっとした所作が変わってくるのではないでしょうか。

ちなみに私の好きな伊坂幸太郎も、作品中で以下のような表現をしています。

「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?」

「あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」

「終末のフール」より

ときたま、

「自分がどれくらい生きるつもりで生きているのか」

「好きな人がどれくらい生きてくれるつもりで生きているのか」

を、考え直してみてもいいのかもしれませんね。

馬を合わせる

話していてとても気が合うと感じる人だとしても、付き合いが続くにつれ価値観の異なる部分が見つかってしまうのは、ある意味当然のことです。

そうなったときは、「気が合うと思っていたのに残念!」と、なんだか勝手に裏切られたような気持ちになってしまいますよね(自分がそうだったりします…)。

快適な履き心地の靴を履いていても、なんらかのタイミングで小石が靴に入ってしまったら、小石のことしか考えられなくなる、みたいな感じでしょうか。

何もないところに突然現れる異物感には、意識を持っていかれがちです。

しかし、相手と合う部分があるのは揺るぎない事実です。

したがって、わざわざ相手と合わない部分を意識してしまうのではなく、合わない部分を理解した上でそれを避けるようにし、お互いが楽しめる舞台だけで付き合いをすればいいんじゃないかな、と思うのです。

「ちょっと考えが合わない話題かも?」

そう思った時は深追いせずに、先ほどまでの楽しかった話題に立ち戻ったりするのも良さそうですね。

というか自分が今度からそうしようと思います、という話でした。

音楽の楽しみ方

自分もわりとそうなのですが、「JPOPは好きでよく聴くけど、洋楽などはあまり聴かない(好きじゃない)」という人が多くいるように感じ、なぜなのかを考えてみました。

ひとつの着眼点として、音楽を「物語」として楽しむか、「音楽」として楽しむかの違いがあるのかと思いました。

どういうことかというと、

JPOPをはじめとした歌ものは、メロディや歌詞が織りなす「物語」をその他の楽器で引き立たせる構成になっています。

映画やドラマの良いシーンで良い音楽が流れていると、より感情が昂ぶりますよね。それと同じことを音楽の中だけで作っているイメージです。

つまり、これはある意味「音楽」というよりも広義での「物語」を楽しんでいると捉えることができます。

一方、UKロックやより原始的な音楽などは、あくまで個人的な意見ですが「音楽そのもの」を楽しむ傾向が強いような気がします。

自分の好きなRadioheadを聴くときも、JPOPの歌ものと比べ、歌があっても曲全体を「塊」として聴くような感覚でいることが多いです。

したがって、「物語」を楽しむことに慣れている人からしたら、そういった「塊」として楽しむ感覚がわからずどこを聴けばいいのかわからない、迷子のような状態になっているのかもしれませんね。

私としては、「良さがわからないな」と感じる曲でも、何回も聴いているうちに馴染んできたのか「なんか前より好きかも」という感覚に変わり、そういう「塊」としての楽しみ方がわかるようになってきました。

もし、毛嫌いしている訳ではなく、洋楽やマニアックな音楽も聴いてみたいと思っている人がいたら、試しに何度も聴いてみて、「音楽そのもの」の楽しみ方がわかるか挑戦してみるのアリかもですね。