洗濯と選択
洗濯機が人を殺す。
そのような台詞を伊坂幸太郎の作品で目にした。
「遂に洗濯機にも自我が芽生えてしまったか…。
これまでの恨みを人類に返す時が来てしまったのだ!」
…という訳ではどうやらなさそうだ。
これは、洗濯機をはじめとした便利な機械が誕生した事により、余剰の時間が生まれ、この余剰時間をネガティブなことを考えるために遣ってしまい、その結果思い悩んで自殺してしまう人が現れてしまった、ということなのだ。
とてもおもしろい表現だ。
ここで「なるほど。余剰時間が悪、ひいては技術の進歩こそが人類を滅亡させるのだ!」と考えるのは少し尚早だ。
なぜなら、その余剰時間をどのように遣うか、その選択権は私たちにあるからだ。
先の例では、残念ながらネガティブな感情を選んでしまったが、なんてことはない、ポジティブな感情だけを拾い上げてやればいい。
ドイツの思想家、ニーチェの言葉にもこうある。
事実というものは存在しない、あるのは解釈だけだ。
洗濯機が生んでくれた余裕をどう遣うか、その選択は依然として私たち自身に委ねられているのだ。